これは判りやすい。
非実在青少年関係 「青少年育成条例改正? ふーん、いいんじゃない?」 と言う人へ:ヘボログ:So-netブログ
是非、読んでみて欲しい。興味の無い人には尚更。
抜粋そのいち
「表現の自由とは、自分の好きな物を好きに読む自由ではない。
自分の好きな物も嫌いな物も、政治、信条、好悪、善悪に関係なく、
国や権力によって、検閲、規制をされない権利」
です。
だから、本質的にこの表現の自由というのは、「作家や出版社、表現者クリエイターだけの為の権利ではない」 という事。
全ての国民が、国や権力によりその意思、表現、主張、思想を、検閲され規制され、それによる差別や不利益を被ってはならない、
というものなのです。
「自分は別に、漫画やアニメにも興味がないし、別に作家業をしているワケじゃないから、そんなの関係ないね」
というのは、大間違い。
まさに、そういう事を考えたり、口にしたり、ネットで書き込んだりする権利そのものが、表現の自由なのです。
抜粋そのに
最初に述べたとおり、僕は「表現の自由を守るべき」だという立場です。
ですがそれは、「表現の自由のためならば、青少年がどうなっても良い」 という意味ではありません。
今回の改訂に、例えば規制主義者の方々が、「青少年の健全な育成」を掲げているからと言うことで、賛同するべきなんじゃないか?
と好意的に考えている人に対してはっきりとしておくべき点は、そこなのです。
反対派にも色んな人たちが居ますから、全てがそうだと言うことではありませんが、基本的には、主だって反対を主張している人たちや
団体の人たちも、当然、「青少年なんかどうなっても良い」と、主張しているわけではないのです。
「青少年も、表現の自由も、共に守るべきだ」
これが、当然も当然、まっとーもまっとーな、当たり前のことです。
取捨選択するようなことではないのです。
「青少年の未来か?」「表現の自由か?」 という、そんな二択で出されること自体が、既におかしいのです。
青少年の未来を守ることは、表現の自由を守ることと通底しています。
彼らが大人になったときに、自由に表現したり発言したり出来ない未来を作ってはいけないからです。
彼らが大人になったときに、平気で表現の自由を売り渡したり、他人の自由を抑圧、弾圧したりする大人になってはいけないからです。
それが、大人のあるべき姿勢であり、大人の負うべき責務であり、政治の目指すべき未来です。
うちらの社会の基盤って、この言葉じゃ無かったの?気に入らない意見は封殺して、葬っちゃうのが正解なの?
「私はあなたの意見に全く賛成できないが、あなたが自身の意見を述べる権利は死んでも守る。」
まぁ、何か世の中はそういう方向で動いてるみたいですけど。
総理大臣の言葉と似たような事を言ったら左遷された連隊長とか、幹事長に諫言したら辞めさせられた副幹事長とか。